殺人の公訴事実について、自殺の主張は客観的証拠と矛盾するなどとして有罪の第1審判決の結論を是認した原判決に、審理不尽の違法、事実誤認の疑いがあるとされた事例
刑法199条、刑訴法411条1号、刑訴法411条3号、刑訴法413条本文
判旨
被告人が妻を絞殺したとされる事案において、原審が「被害者の顔面に血痕がないこと」を主要な根拠として自殺の可能性を排斥し有罪とした判断は、証拠上その事実が不分明である上、審理不尽の結果として経験則に反する不合理な認定を含んでおり、重大な事実誤認の疑いがあるため、破棄・差し戻しを免れない。
問題の所在(論点)
直接証拠がない状況で間接事実から犯人性及び事件性を認定する際、裁判所が当事者の主張・立証がない事実を主要な根拠として他殺と認定することの許容性、及び証拠構造上の合理性(刑訴法411条1号、3号)。
規範
1. 事実認定は、証拠に基づき、論理則・経験則に照らして合理的なものでなければならない。 2. 控訴審において、第一審が認定しなかった新事実を認定の基礎とする場合や、当事者が争点としていなかった事実に着目して結論を導く場合には、当事者に十分な主張・立証の機会を与え、審理を尽くさなければならない。 3. 間接事実による推認は、各事実が客観的証拠と整合し、かつ他者の介在や自殺等の代替的仮説を合理的に排除できるものでなければならない。
重要事実
被告人が自宅で妻の頸部を圧迫し窒息死させたとして殺人罪で起訴された。争点は「被告人による他殺」か「被害者の自殺」かであり、直接証拠はない。一審は、寝室に尿斑・血痕があること(本件推認)等から有罪としたが、原審は一審が重視した「現場血痕の不整合」を否定しつつ、新たに「被害者の顔面に血痕がないこと」から自殺行動は不可能であったと認定し、有罪を維持した。
あてはめ
1. 原審は、被害者の顔面に血痕がないことを自殺否定の有力な根拠としたが、その判断資料とした写真は範囲が限定的、または不鮮明であり、当該事実を認定するに足りる証拠は取り調べられていない。 2. 当事者間でも顔面の血痕の有無は争点とされておらず、十分な主張・立証の機会が与えられないまま、原審が独自に認定した事由をもって有罪の主要な根拠とした点は、審理不尽といえる。 3. 前額部挫裂創からの出血態様や、自殺に至る行動の多様性を考慮すれば、血痕がないことが直ちに「意識を失っていたこと(他殺)」を強く推認させるという経験則の適用は、証拠上の裏付けを欠き不合理である。 4. これら自殺の主張を排斥する主要な根拠が失われる以上、検察官が主張する「本件推認」の成立自体にも疑義が生じる。
結論
原判決には審理不尽及び重大な事実誤認の疑いがあり、これを破棄しなければ著しく正義に反する(刑訴法411条1号、3号)。よって原判決を破棄し、更なる審理のため第一審を東京高等裁判所に差し戻す。
実務上の射程
間接事実を積み上げて犯人性を認定する「総合評価」の手法を採る場合であっても、個々の間接事実は客観的証拠に裏付けられ、かつ防御権の対象となるべき争点として審理される必要があることを示した。
事件番号: 昭和45(あ)913 / 裁判年月日: 昭和45年12月22日 / 結論: 破棄差戻
殺人の公訴事実について、第一審が殺意の存在を認めず、傷害致死の犯罪事実を認定したのに対し、控訴審が、みずから殺意の点に関する事実の取調をすることなく、実質上、第一審で取り調べた証拠のみに基づいて未必の殺意を認定し、殺人罪として処断することは、刑訴法四〇〇条但書の解釈上許されない。