借家人の居住する建物及びその敷地の売買で、売主が借家人を立ち退かせたうえで土地建物を買主に引き渡す約定である場合、売主が売買直後ごろ一、二度借家人に立退きを要求しただけでその後は借家人を立ち退かせる努力をせずに放置し、他方、買主は、その間しばしば売買の仲介人に対し借家人を立ち退かせて土地建物を引き渡すよう売主に催告されたい旨を依頼し、更にその後売買代金を携えて売主方に赴き、売主に対しこれを受け取るよう求めた場合には、買主に民法五五七条にいわゆる「契約ノ履行ニ著手」があつたものと認めるのが相当である。
民法五五七条にいわゆる「契約ノ履行ニ著手」したものと認められた事例
民法557条
判旨
売買契約において、買主が残代金を持参して売主方を訪れ、その受領を求めた行為は、民法557条1項にいう「履行の着手」に該当する。したがって、当該行為の後に売主が手附金の倍額を償還して契約を解除することは認められない。
問題の所在(論点)
買主が残代金を提供しようとした行為が、民法557条1項に規定する「履行の着手」に該当し、売主による手附解除を制限するか。
規範
民法557条1項の「履行の着手」とは、債務の内容たる給付の実行に着手すること、すなわち、客観的に外部から認識し得る形で、債務の履行の一部をなし、または履行の提供をするために欠くことのできない前提行為をしたことを指す。
重要事実
不動産売買において、売主(上告人)は借家人を立ち退かせた上で土地建物を引き渡す義務を負っていたが、数回の立退要求後は放置していた。買主(被上告人)は仲介人を通じて再三催告したが事態が進展しなかったため、本件土地建物の引渡し等を求める訴えを提起するとともに、同日、残代金215万円を携えて売主方を訪れ、代金の受領を求めた。売主はその後、手附金の倍額償還による解除を主張した。
事件番号: 昭和51(オ)1287 / 裁判年月日: 昭和52年4月4日 / 結論: 棄却
農地法五条の知事の許可を要する農地の売買契約で解約手附が授受された場合において、買主が残代金全額を支払いのため売主に提供したときは、それが知事の許可を受ける前であつても、民法五五七条一項にいう「契約ノ履行ニ著手」したときにあたる。
あてはめ
買主は、単に口頭で履行を催告するにとどまらず、残代金全額を現実に持参して売主方に赴き、その受領を求めている。これは債務の内容たる代金支払債務の「履行の提供」そのものであり、客観的に外部から認識し得る形で履行の実行に着手したものと評価できる。売主が何ら義務を履行せず放置していた状況下で、買主が訴訟提起と並行して代金を提供した事実は、契約の存続を信頼し履行に向けて不可逆的な段階に進んだといえる。
結論
買主には履行の着手があったと認められるため、その後の売主による手附金倍戻しによる解除の意思表示は無効である。
実務上の射程
現実の提供(493条)に至る行為が「履行の着手」に該当することを明示した射程の広い判例である。答案上は、代金持参や提供の事実を拾い、それが「履行の一部」または「前提行為」に当たるかを論じる際の根拠となる。買主側の着手を認めることで、売主側からの手附解除を封じる文脈で頻出する。
事件番号: 昭和29(オ)361 / 裁判年月日: 昭和30年12月26日 / 結論: 棄却
賃借人の居住する家屋の売買で、売主が賃借人に家屋の明渡をなさしめた上これを買主に引渡す約定のある場合、買主が、しばしば売主に対し、賃借人に家屋の明渡をなさしめてこれが引渡をなすべきことを督促し、その間常に残代金を用意し、明渡があればいつでもその支払をなし得べき状態にあつた上、売主が、買主とともに賃借人方に赴き売買の事情…
事件番号: 昭和39(オ)597 / 裁判年月日: 昭和40年12月14日 / 結論: 棄却
一 特定物の売買契約にあつて、所有権は契約と同時に移転せず、代金完済と同時に移転すると解しなければならないことはない。 二 建物の買主が終始明渡の要求をなし残代金は即時でも支払いうる状態にあつたこと、および右明渡請求の訴が提起されていたことから、買主においてすでに履行の著手があつたと認めたのは相当である。
事件番号: 昭和24(オ)189 / 裁判年月日: 昭和26年11月15日 / 結論: 棄却
家屋の買主が、約定の明渡期限後売主に対ししばしば明渡を求め、かつ、売主が明渡をすればいつでも約定残代金の支払をなし得べき状態にあつたときは、現実に右代金の提供をしなくても、民法第五五七条にいわゆる「契約ノ履行ニ著手」したものと認められる。
事件番号: 昭和50(オ)228 / 裁判年月日: 昭和50年6月27日 / 結論: 棄却
売買契約の買主が口頭で代金の受領を求める旨の催告を売主の同居する家族で通常人の理解能力を有する者に対してした場合には、右催告は、売主本人に到達したものと解すべきである。