病身の夫が家族との不和と療養の関係からさして遠方でない土地に別居中、妻が無断で夫の印章を偽造し、夫の代理名義で夫所有の土地家屋を代金三一〇万円で売却した場合、交渉の行われた場所が当該の家屋であり、家族の収入は妻名義でなす貸間収入で賄われており、成人した子供達が交渉の際同席する等、一応妻に代理権があると信じさせるような事情が存在していたとしても、「夫が病気で別居し、仕送りがないので借金ができ、その整理のため売る」旨告げられながら、直接夫について確かめなかつた場合には、買主には、妻に不動産売却の代理権があると信ずべき正当の理由があるとは言えない。
民法第一一〇条にいわゆる「正当の理由」がないとされた事例。
民法110条
判旨
夫婦の一方が他方の代理人として不動産を売却した際、民法110条の「正当な理由」が認められるためには、相手方が本人の売却意思や印鑑証明の真偽を直接確認するなどの慎重な行動をとるべきであり、それを怠った場合には善意無過失とは認められない。
問題の所在(論点)
夫婦間の日常家事代行権等を基本代理権として民法110条の表見代理の成否を検討するにあたり、不動産の売却という処分行為において相手方が代理権の存在を信じたことに「正当な理由」が認められるか。
規範
民法110条の「正当な理由」があるというためには、相手方において、表見代理人に当該権限があると信ずるにつき相当な理由があることを要する。特に不動産の売却という重要な処分行為において、別居中の本人の意思確認が容易であるにもかかわらずこれを怠り、代理人の説明や外観のみを安易に信頼した場合には、特段の事情がない限り正当な理由は認められない。
重要事実
夫(被上告人)と別居中であった妻Dが、夫に無断で夫の代理名義を冒用し、代金310万円で本件不動産を上告人に売却した。Dは「夫の借金整理のために売る」と説明し、偽造の印鑑証明書を提示した。上告人は、夫が近隣の市に別居しており容易に連絡が取れる状況にあったにもかかわらず、夫本人に売却の真偽を確かめる措置を一切講じなかった。
事件番号: 昭和31(オ)1057 / 裁判年月日: 昭和34年8月18日 / 結論: 棄却
【結論(判旨の要点)】日常家事に関する代理権を基礎として権限外の行為がなされた場合、その相手方が代理権があると信ずるにつき正当な理由があるときは、民法110条が適用または類推適用される。 第1 事案の概要:職業軍人であった夫(上告人)は、昭和19年に南方へ出征する際、妻に対して後事を託し、日常家事に関する代理権を授与し…
あてはめ
本件では、Dが管理行為の委任を受けていた等の事情はあるものの、310万円という高額な不動産売却である。通常の注意力を有する者であれば、Dから「夫が病気で動けず借金整理のために売る」との説明を受けた際、本人の売却意思を慎重に確認すべきである。上告人はさして遠方でもない場所にいる本人への確認を怠っており、偽造された印鑑証明を見抜く機会も失っている。したがって、上告人がDに権限があると信じたことには過失があり、正当な理由は認められない。
結論
本件売買について民法110条の表見代理は成立せず、不動産の売買契約は本人に帰属しない。したがって、上告人の請求は認められない。
実務上の射程
夫婦間の日常家事債務(761条)を基本代理権とする110条の適用の可否については、本判決後の昭和44年判決で「日常家事の範囲内と信じるべき正当な理由」が必要と整理された。本件はそれ以前の判例だが、重要な処分行為において「本人への直接確認」を怠った場合に正当な理由を否定する厳しい規範を示すものとして、現在でもあてはめの際の有力な指針となる。
事件番号: 昭和43(オ)971 / 裁判年月日: 昭和44年12月18日 / 結論: 棄却
一、民法七六一条は、夫婦が相互に日常の家事に関する法律行為につき他方を代理する権限を有することをも規定しているものと解すべきである。 二、夫婦の一方が民法七六一条所定の日常の家事に関する代理権の範囲を越えて第三者と法律行為をした場合においては、その代理権を基礎として一般的に同法一一〇条所定の表見代理の成立を肯定すべきで…
事件番号: 昭和28(オ)1350 / 裁判年月日: 昭和31年9月18日 / 結論: 棄却
本人の渡米不在中権限を踰越して土地売却の代理行為をした代理人について、本人の実印を所持していた事実の外、後記(判決理由参照)のような事情もあつたときは、民法第一一〇条の代理権ありと信ずべき正当の理由があるものということができる。
事件番号: 昭和30(オ)524 / 裁判年月日: 昭和32年2月22日 / 結論: 棄却
【結論(判旨の要点)】夫婦の一方が他方の代理人としてした法律行為について、民法110条の表見代理が成立するためには、相手方において当該行為が日常家事の範囲内に属すると信ずべき正当な理由があることが必要である。 第1 事案の概要:被上告人(妻)とD(夫)は、昭和28年5月から別居し、同年11月には婚姻関係を解消した。Dは…